アマカン講談師の講談的ひとりごと

講談と講談師について、アマチュア講談師が気ままに語ります。

第十三席 高岡講談会 始まる

講談を始めてしばらくして、
愛山先生について、
栃木県佐野市に行く機会がありました。

先生の故郷 佐野市の神社で行われる講談会について行ったのです。

多分、二席お読みになったと思いますが、
そのうちの一席が
赤穂義士伝の白眉
「大高源吾」でした。

終わって、神社の前でお客様をお見送りしている時に
その日、いらして下さったお客様が
「今日の講談 よかったなー
なかなか聞けないからなー」

この言葉を聞いて、
「そっかー!
東京に住んでいたら、いつでも講談聞けるけど、
地方に住んでいたらそういうわけにはいかないんだー」

それなら、
自分の故郷の富山は高岡でも
講談会、開いたらみんな喜んでくれるんじゃないかとー

今、思い出すと、本当によくあんなことが思い浮かんだもんだと、
あとさき考えない向こう見ずな性格だなと
今さらながら思うわけです。


早速、両親に電話をしたら
「じゃあ、近くに公民館でー」

というわけで、私の実家に近い公民館で
高岡講談会を開くことのしたわけですー

ところが、ある一日のこと、
母から電話がかかり、
「膝が痛い人がいて、座れんから、椅子の席にしたら?」

そうなると探さなくてはいけない、
椅子の並ぶホールを。

しかし、値段も手頃で地の利もいい会場は
すぐに見つかりました!

奇しくも母校の前のホールです。
300人も入るというこのホール!

どうやって人を集めるんだと頭を抱えましたが、
まず、高校の同期に声をかけます。

「来年、4月に高岡で講談会をやることにしたがや。
だから、聴きに来て欲しい。」
「わかった。知っとる人にも声 かきっちゃ」

父と母も知り合いに頼んでくれました。

父は、自分の趣味の絵の関係の人や
勤めていた会社の同僚、
そして、町内会の人々にも声をかけてくれました。

私は、名簿を見ながら300人の方にハガキを書きました。

あの頃はまだうちをリフォームしていなくて、
卓袱台に向かって書いていたのを思い出します。

毎日30枚書いたら10日で終わる
と思っても、そう計算通りにはいかないんですよね。

たくさん書ける日もあれば、そんなに書けない日もあります。

ハガキの原稿は、愛山先生がパソコンで作ってくれました。

時には職場に持って行って
住所ではない面に、
「よろしくお願い致します」と書いたりしました。

そして、一体どうなるんだろ、皆さんいらしてくださるのか」と
不安だけでいっぱいで迎えた講談会当日。

平成18年4月 文化ホールの多目的ホールには
なんと300人近い人たちがいらして下さったのです。

その頃、まだ元気だった叔父も、
会社を経営していたということもあり、
知り合いの人たちをたくさん連れて来てくれたんです。
久しぶりに叔父や叔母に会いました。

まさか、講談会をやって会うことになるとは夢にも思いませんでした。

まさか、自分の母校の前で講談会を開くことになるとは夢にも思いませんでした。

人生は何が起こるかわからない。
でも、好きなことに打ち込んでいると
思いもかけないいいことが待っているような気がする

そう思えるようになったのは、
高岡講談会を形にしてからだと思います。
本日のところは、「高岡講談会 始まる」の一席、

これをもって読み終わりと致します。